無理無駄 |
余分な事、邪魔な事ってイメージがする無理と無駄。
だから、現状を打開する際には、真っ先に目の敵にされるんです〜
元々の言葉の意味は違うんだろうけど、あまり厳密に考えてはいませんよね?
とはいえ、無駄の有る空間で寛げるロビーって言っても、無理の有る空間では?寛げないよ〜!
だから、本当は随分と違うんじゃない?
でも、2つをひっくるめると何となくイメージで伝わってくれるというか〜
それでかどうだか、無理無駄を無くそう!ってよくいうでしょ?
この2つには大きな共通点があるよね!
それは、まず、意識する事である程度は良くなるって事。
だから、例えばQCサークル活動でのお決まり文句!
「この問題をテーマに取り上げた事から既に効果は表れてきました〜」
そして次には、あるところまで達するとなかなか前に進まなくなったって事。
この2つに共通する部分について、何故だろうって考えたことあります〜?
もし、個人の問題であれば、自分自身で改善しようと取り組むわけで、その意識する程度に応じた効果は生まれます。
当たり前ながら、無理を承知でやってる部分に、待てよ?ってメスが入るはず。
ところが、誰もが経験あると思うことだけど、まわりの者から「そんな無理しても逆効果や!」とか、「無理するなよ〜」とか言われる場合。
自分には、そんな意識が当然無いから、普通にとか、逆に良いと思ってやっている場合さえあります。
しかし、他から見れば無理な事に見えている部分があるって事実。
すなわち、自分自身で無理を改善、否、抽出する事すら、正に無理があるって事でしょう。
では、何故そのズレが生まれてくるのだろう?
それは、自分にはその事に対するしっかりとした考え(裏づけ)があり、まわりの者にはそれがないかそれを肯定していない。
正しく言えば、まわりの者には、それに応じたそれぞれの考えがあるってわけです。
その考えの違いが、同じ事でも無理となったり、普通や良いことにさえなったりするわけです。
「無駄」の場合も例に挙げるなら、自分は車の調子を気遣い暖機運転をしていたとします。
ところが、メカに詳しくない人なら、無駄にガソリンと時間を消費しているようにしか見えないかもしれません。
仮に、誰もが認識出来るようなレベルを、絶対的なレベルと言う事にします。
そうすると、この考え方によって違ってくる部分は、相対的なレベルと言えるでしょう。
これで何となく話がまとまってきました。
そうです、難しくなる段階がこの相対的なレベルと言えませんか?
個人の問題なら、まわりの意見を求めて色んな考えと自分の考えを照らし合わせてみる。
そして、より良い考え、より良い価値観を生み出すことで、新たな無理が抽出され、改善が再び進みだす。
企業などのグループ、そう、QCサークル活動に例えを戻せば、この相対的なレベルってのはどうなんだろう?
やはり、グループにも絶対的なレベルって段階が必ずあるはず。
そして、相対的なレベルもやはりその上にあるのでは?
活動でテーマとして取り上げただけで、この絶対的なレベルは持ち上がるはず〜
もしかしたら、元々にあった相対的なレベルの半分ぐらいまで上がるかもしれない。
問題意識が高まり、お互いの行動を普段の中でもチェックし合うようになるからでしょう。
そして、見える部分の良い事は、それぞれに取り入れられ、新たな行動を生む。
その結果が、目に見えて効果が表れてきたって段階となるに違いない。
ところが、見えない部分については、これだけではグループに浸透しないでしょ?
だから、話し合い意見することが大切になる〜
情報や考え方を共有するために!
そして、さらに高いレベルに進展させるためには?
それぞれの意見を交わす中で、より良い考え方や価値観を新たに作り出し、グループで共有しなくてはなりません。
要するに、これはQCサークル活動等に限ったことではありませんね!
強いチームを作ろうと思えば、トップが強烈な信念を浸透させるか、もしくは多くの意見を集約して運営するか、どちらかが必要なんじゃないの?
そうなると、弱いチームは、無理無駄をばら撒いていると‥‥‥!
無理無駄から、この結論を導きだすには少々無理があったかも‥‥‥
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